最初は苦戦したApfelstrudelだが少しずつコツを掴んできた。指や手を使うと一部分だけが薄くなる為、両腕全体を使ってまんべんなく力が加わっていくようにする。生地の仕込み方によっても伸び方が変わるので絶対に他人には触れさせないようにした。
生地をマスターすると自分一人で生地の仕込みからリンゴの処理、巻き、焼成、カットまでやった。最初は周りのスタッフに不審がられたが納得できるまで全工程を一人でやりたい旨を一生懸命説明すると全員理解し、それぞれの考えを教えてくれた。生地の伸ばしの次に難しかったのは巻きである。しっかりと巻いてやらないと横広がりの不細工な物になってしまう。リンゴによっても当然、扱い方は変えなければならない。柔らかい水分の多いリンゴの時は余程巧く巻いてやらないと上手く焼きあがらない。日々違うリンゴのコンディションによって中に入れるケーキクラムの量、巻きの締め具合を変えていく。上手くApfelsturudelが焼けるようになると次はSachertorte(ザッハトルテ)に挑戦していった。ザッハトルテは何といっても表面に掛けるショコラの扱い方が難しい。次はカーデナルシュニッテン。この菓子は生地のメレンゲがポイントだ。このようにして一つずつ着実にウィーン菓子をものにしていった。毎日、私がウィーン菓子を夢中で作れたのもアンナミューレのスタッフのお陰であった。マンフレッドは父親からオーナー職を引き継ぎつつあって、その他にもパン、コンディトライ(ケーキ)とフル回転で働いていた。コンディトライ部門を任されていたのはヘートナー氏。コンディトライ一筋の職人である。彼は若いスタッフには厳しかったが私にはとても親切だった。次々とウィーン伝統菓子にトライしていく私をいつも優しく指導し見守ってくれた。彼は仕事が終わるとよく私を家に招いてくれ、行くといつも近所の人達も交えたピンポン大会となった。ドイツ語が未熟な私への配慮だったように思う。ピンポンを通して会話も盛り上がって近所の人とも仲良くなれた。ピンポンは御存知の通り卓球の事でスイスでもオーストリアでも盛んであった。日本では既にファミコンが全盛だったがこちらでは子供達はスポーツをしたり、川や山で遊んだ。もちろん大人もだ。家庭によってはテレビを置かない主義にしている家も少なくなかった。家族の会話を大事にする気持ちは今の日本より格段に強い。
マンフレッドが私を呼んだ理由の一つは飴細工だ。彼のマジパンとショコラの技術は素晴らしかったが飴細工は苦手だった。これはマンフレッドに限らずオーストリアの菓子職人の多くに言える事であった。細工菓子のほとんどはマジパンかショコラである。パイピングの技術もピカイチである。パイピングとはショコラやグラス(粉糖と卵白を混ぜたもの)を三角柱の紙に入れて文字や線を描く技術である。昔は日本人も得意としていたが現在は遥かにオーストリアの方が上であろう。マンフレッドからマジパンやパイピングを教わり私が彼に飴細工を教えた。彼は飴細工が苦手なのには理由があった。前年まで彼は豪華客船のシェフパティシエとして世界中を回っていた。湿度を極端に嫌う飴細工は海上では向かない。彼の世界中を回った話はとても興味深かった。特に大変だと感じたのは、半年間お客様が全く変わらないという事であった。誕生日など毎日のように船上でパーティが催されるがホテルと大きく違う点は毎日、顔ぶれが全く同じという事だ。これは正直キツイ! |