「TOSHI」としてスイスに生まれ ー 。 | Vol.33

 憧れの店、Jean luc peleで働く許可をもらったばかりだというのにパリの老舗StohrerでもChefから「明日から来てくれ!」と言って頂き正直迷った。と言っても5秒程であろうか。その間に色々な考えが頭の中を駆け巡りそして答えた。
「明日は何時に来たら良いですか?」
ストーラーのトレトゥール(惣菜)
ストーラーのトレトゥール(惣菜)
Jean luc peleとStohrerの菓子は自分にとって甲乙つけ難い出来栄えであった。数秒間だがしっかりと考えてStohrerを選んだ理由の一つは、Jean luc peleは製造のラボ(厨房)が他の場所に有り、ベルサイユの店では半製品として運ばれてきた菓子の仕上げのみを行っていたのに対し、Stohrerは店は狭いながらも奥に広いラボがあり、焼き菓子、生菓子、ヴェノワズリー(デニッシュ類)、トレトゥール(惣菜)等、全てこの店内で作られていた。もう一点は、StohrerではChef自らのOKが貰えた事である。ヨーロッパでは何が起こるか判らない。Jean luc peleではオリビエが約束してくれたとはいえChefが100%OKをだすとは限らない。土壇場で話がひっくり変わるなんて事は日常茶飯事である。StohrerのChefに即答したのも同じ理由である。「少し考えさせてくれ」なんて悠長な事を言っていれば、一時間後には別のパティシエがStohrerの門を叩く事だって十分考えられる。チャンスは今、掴まなければ意味が無い。この時の決断は今となって考えても正しかったと思っている。最も「決断」より大事な事は「決断した事を英断にする努力」であるから、「判断ミス」というのは自分では無いと思っている。それを言うなら「努力不足」であろう。たとえ道を間違ってもそれを自分にとってプラスに変える努力があればその道が正道になる。
ストーラーの焼場
ストーラーの焼場
 決断に悔いは無かったがJean luc peleへの足取りは重かった。たった一日とはいえ一緒に働き、まして自分を認めてくれた人の誘いを断る事になる。オリビエに会った私は下手なフランス語を駆使して誠心誠意説明した。オリビエは快く理解してくれ、Stohrerの後「ここに来ればいい」と言ってくれた。「Oui!」と答えた私は真剣にそう考えた。この時点ではStohrerに2年間も夢中になってハマるとは思っていなかった。
結果的に急転直下、パリで仕事が決まり、後少しの語学学校は中退して翌日から働きだした。4日前までは次はベルギーで働くと思い込みフランス語の勉強に勤しみ、3日前はベルギーの店からの手紙に憤慨していたのが、今はパリ一番の老舗で私が一番働きたいと思っていた店の一員となり楽しく働いているのである。私自身よりも、ホームスティ先のファミリーや周りの友人たちが驚いていた。私はといえば、数々の幸運を与えてくれる神様と数々の私を支えてくれる人達に感謝しながら無我夢中でパティシェとして働いた。今までもこの連載の中で“パティシェ”という言葉が出てきたが正確にはこの瞬間からである『パティシェTOSHI』が誕生したのは。日本にいた時はまだ“パティシェ”という言葉は普及していなく関西のどのホテルも菓子部門は“ベーカー”と呼ばれていた。「Chef」は“シェフ”では無く“チーフ”であった。スイス・オーストリアのドイツ語圏では“コンディトライ”と呼ばれる。
 当初、ベルサイユから通っていたが不便になってきた為、パリ17区に引っ越した。
ステュディオと呼ばれる最上階の屋根裏部屋で2畳程の狭い部屋だったがシャワーもトイレもついていて快適であった。ただし全面鏡張りなのを除いて!!