「TOSHI」としてスイスに生まれ ー 。 | Vol.5

 その場にいたスタッフに一通りの挨拶を終えると、三階の部屋へと案内された。その部屋は日本風にいうと八畳二間。片側の部屋にベットやテーブルが備えてあり、もう一部屋には店に飾るさまざまなディスプレイが保管されていた。前の廊下を真っ直ぐに6~7m 程行くと、もう一つ倉庫に使われている部屋があり、この部屋にテレビを置いてくれた。ベットのある部屋には配線がきていないらしい。この部屋には、その後よく来た。テレビを見に来る事もあったが、それよりも広場に面したこの部屋からビール片手に外を眺める事が大好きだった。町の中心のこの広場では様々なイベントが行われた。日本やこの後に住むパリのそれに比べると質素なものであったが、とても温かみがありいつまで眺めていても飽きることはなかった。
 部屋に入ってしばらくすると、誰かがドアをノックする。エルマティンガー氏かと思い開けてみると、そこには彼の胸までもない老婆が一人立っていた。何か一生懸命、英語で話そうとしているのだが理解できない。しかし、とても好意をもってくれている事だけはわかる。この老婆がエルマティンガー氏の母親「アンニャ」。スイスでも話す人が少なくなった「ロマンシュ語」を母国語にもつ。スイスは4つの言葉が公用語として使われている。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語。シャッフハウゼンもそうであるが約65%の人がドイツ語を話す。スイスで最も古いと言われているロマンシュ語は1%にも満たないが、この言語を守る為にも公用語として認めているのはいかにもスイスらしい。アパートを借りて引っ越すまでの三ヶ月間この店の上で過ごすのだが、その間アンニャが洗濯など身の回りの世話をみてくれた。その後も彼女は私を実の孫のように可愛がってくれた。今でも決して忘れられない恩人の一人だ。
  部屋で荷物の整理をしているとエルマティンガー氏が呼びに来て市内観光へ連れて行ってくれた。シャッフハウゼンの名士である彼は町中の人から声をかけられる。一般的なドイツ語の「こんにちは」である「Guten tag」はスイスでは使わない。「Gruezi グリュツィ!」と言う。もっと親しい人には「ホーイ!」。右手を軽く上げてこの挨拶を交わしながら歩くのだが、これがなんともいい!
店のあるフロンワグ広場からフォルダー通りをライン川のほうに100mも歩くと、右側に壁一面に美しい絵が描かれている家が見える。1570年に作られたという「騎士の家」だ。神話が描かれていてその美しさは目に眩しい。なお真っ直ぐ行くと左側に大きな教会が見える。これが聖ヨハネ教会。ヨーロッパではどんな小さな町にも必ず教会があるものだが、これからこの町に住むという喜びと、エルマティンガー氏の温かい笑顔の説明にとにかく見るもの全てが輝いて見える。バッハ通りを越え、少し狭くなった道を進むと左側に階段がある。狭い階段だが少し上ると急に視界が開け、まわりは葡萄畑となる。この階段をさらに上がると町のシンボルのムノートがある。1564年に作られた円形状の城だ。一階に入ると周りは全て石で作られていて夏なのに寒いくらいだ。片隅にある螺旋階段を最上部まで上るとそこは円形の広場になっていた。小さな売店が一つあり、そこでコーヒーを買ってもらって飲みながら広場の端まで行くとそこからはライン川の雄大な眺めが広がっており、そして小さいながらも中世のたたずまいをそのまま残したシャッフハウゼンの全景を眺めることができた。それは全てが想像していた以上の美しさだった。