TOSHIとしてスイスに生まれ
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Stohrerの仕事
Stohrerでの仕事は、カヌレ、クレム・パテシェールに始まりその後マカロン、ババ、シュー(エクレアやクロカン・ブッシュも含めて)など徐々に増やしていった。これらは特にフランスに来て学びたかった菓子なので特に念入りに学んだ。担当になった仕事は着実に自分の物にしてゆき、その後は少しでも早く出来るようにして、時間が空くとどんどん次の仕事に挑戦していった。最初は仕込み専門だったが次にはFour(オーブンの意味で焼き物担当を指す)も担当させてもらい一日中スポーツのようにマカロン、ジョコンド(アーモンド生地)、タルト等、様々な生地をガンガン焼いていくのは汗だくになりながらも心にも体にも気持ち良かった。
ウエディングケーキ
Stohrerの仕事の楽しみに昼食があった。パリではPatisserieでもTortore(トレトゥール)と呼ばれる惣菜を扱っている店が多く、このStohrerはその中でもとても充実していた。その為、5人もの専属の料理人がいた。もちろん店で販売する惣菜作りがメインの仕事だが食を何より大事にするフランス人らしく彼らにとって皆のまかないは大きな仕事であった。スイス人がまずサラダ、そしてメインディシュ、オーストリア人はスープの後にメイン、ここパリでは最初にメイン、その後にフロマージュを食べるというのが習慣であった。皆でワイワイと騒ぎながら食べる昼食は最高のご馳走であった。単純に美味しいのが第一。そして仲間と食べる楽しさが第二。もう一つはこの時期、お金が無かった!というのも今までスイス、オーストリアと日本で働いていた頃と同様の給料で働いてきた私だがさすがにこのパリだけは厳しかった。
クロカンブッシュ製作
私はヨーロッパ8年間、無給で働いた事は最初のスイスの3ヶ月間だけである。後は必ずギャラ交渉をして徐々に上げていった。休みも同じである。休み返上で職場で練習した事はよくあるがこれは練習であって仕事ではない。賃金も休日も現地の人と同じだけ要求した。これは欲が深いのでは無く、ポリシーである。最初、Stohrerで当時のシェフにこれを要求すると驚いた顔をして「日本人はお金も休みも入らないから働きたいと言うのにお前はフランス人と同じだけ要求するのか?」と驚かれた。当たり前である。その分必ず働く。私は現在も含めて「自分は仕事が出来る!」なんて思った事はたったの一度もない。運動神経はあまり良くなく、語学の才能もゼロで、おまけに不器用である。「仕事が出来る自信は無いが、仕事を出来るまでやる自身はある。」
お金も休みも要求しないから雇われるなんてのは絶対にいやだ!。才能が無くったってプロとしてその店に必要だからこそ雇われたい。雇われるからには絶対に見返りは要求する。そしてなによりも「日本人は無料で働く」というフランス人の中にある概念を壊したかった。とはいえ当時の私がこのパリでフランス人と同じだけ給料を取るのは不可能であった。スイスで所得した労働ビザはここフランスでは通用しない。朝は職場で焼きたてのクロワッサンを、昼は賄いをお腹一杯食べ、夜は余ったサンドイッチを貰って帰って食べた。休みの日は食事にありつけ無いので内緒で入手した学生証を使ってパリ郊外にあるCite Univercity(シテ・ユニヴェルシティ)という大学の食堂によく行った。安くてボリュームもあってお気に入りだった。この頃は、貧乏であったが苦労なんてものは一度もしなかった。散髪に行けなくて髪は自分で切り、破れたデニムにおんぼろシューズでも毎日が楽しかった。もちろんエアコンなんて無い屋根裏部屋でバゲットにフロマージュ、そして安ワインがあれば最高に御機嫌だった。
お金も休みも要求しないから雇われるなんてのは絶対にいやだ!。才能が無くったってプロとしてその店に必要だからこそ雇われたい。雇われるからには絶対に見返りは要求する。そしてなによりも「日本人は無料で働く」というフランス人の中にある概念を壊したかった。とはいえ当時の私がこのパリでフランス人と同じだけ給料を取るのは不可能であった。スイスで所得した労働ビザはここフランスでは通用しない。朝は職場で焼きたてのクロワッサンを、昼は賄いをお腹一杯食べ、夜は余ったサンドイッチを貰って帰って食べた。休みの日は食事にありつけ無いので内緒で入手した学生証を使ってパリ郊外にあるCite Univercity(シテ・ユニヴェルシティ)という大学の食堂によく行った。安くてボリュームもあってお気に入りだった。この頃は、貧乏であったが苦労なんてものは一度もしなかった。散髪に行けなくて髪は自分で切り、破れたデニムにおんぼろシューズでも毎日が楽しかった。もちろんエアコンなんて無い屋根裏部屋でバゲットにフロマージュ、そして安ワインがあれば最高に御機嫌だった。