TOSHIとしてスイスに生まれ
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祖母
祖母と家族に会うために一時帰国した私だが3週間様々な方に会った。懐かしい十四件長屋の面々に会ったときには「長屋初の洋行帰り」とちやほやされた。長屋仲間では色んな噂が飛び交っており、その中には「6カ国語を自由に操る男」というのがあった。日本語、スイス語、オーストリア語、ドイツ語、フランス語、ベルギー語である。「スイス語ってどんなの?」と聞くと「そんなん知るか!とったん(幼少時代長屋でのあだな)の専門やろ!」ネタのような話であるが全て本物である。
長屋旅行-右が母、真上が父
「とったん、欧州から帰って来たんは北回り?南回り?」(すみません。若い方は何の事か年配の方に聞いて下さい。)
「とったん、三ツ星のレストランで働いてんのか。頑張って早よ五つ星獲らなあかんで!」
などなど。友人知人との再会は楽しかったがより刺激的だったのは、知り合いの伝手を使って初めて憧れのシェフの方々に出会えた事であった。河田勝彦氏、稲村省二氏、柳正司氏、横田秀雄氏、林雅彦氏、西原金蔵氏、永井紀之氏等々素晴らしい方々との出会いである。河田氏の握手した時のがっちりとした職人の手。エレベーターを待ち切れず階段を二段飛ばしで駆け上がる稲村氏のパワフルさ。忙しいにも関わらず駅まで車で送って下さった柳氏の優しさ。話しているだけで心が温まってくる西原氏の大きさ。色んな方に直ぐ電話で私を紹介して下さった林氏の人柄の良さ。思わず話が弾んだ永井氏の楽しさ。初対面の方ばかりだが本当に皆さん親切にして下さり感激の連続で会った。愉快であったのは平井政治氏との再会であった。以前にパリのレストランで御馳走して頂いた事があり、アポを取ってご挨拶に伺った。 「そうか貴方、ベルギーで働いているのかね。私もベルギーに知人がいるから紹介してあげよう。困った事があったら訪ねるといい。時折、手紙をくれて今はベルギーの三ツ星レストランで働いているよ。」 「平井社長、その知人は私です!」豪放磊落、素晴らしい方であります。
「とったん、三ツ星のレストランで働いてんのか。頑張って早よ五つ星獲らなあかんで!」
などなど。友人知人との再会は楽しかったがより刺激的だったのは、知り合いの伝手を使って初めて憧れのシェフの方々に出会えた事であった。河田勝彦氏、稲村省二氏、柳正司氏、横田秀雄氏、林雅彦氏、西原金蔵氏、永井紀之氏等々素晴らしい方々との出会いである。河田氏の握手した時のがっちりとした職人の手。エレベーターを待ち切れず階段を二段飛ばしで駆け上がる稲村氏のパワフルさ。忙しいにも関わらず駅まで車で送って下さった柳氏の優しさ。話しているだけで心が温まってくる西原氏の大きさ。色んな方に直ぐ電話で私を紹介して下さった林氏の人柄の良さ。思わず話が弾んだ永井氏の楽しさ。初対面の方ばかりだが本当に皆さん親切にして下さり感激の連続で会った。愉快であったのは平井政治氏との再会であった。以前にパリのレストランで御馳走して頂いた事があり、アポを取ってご挨拶に伺った。 「そうか貴方、ベルギーで働いているのかね。私もベルギーに知人がいるから紹介してあげよう。困った事があったら訪ねるといい。時折、手紙をくれて今はベルギーの三ツ星レストランで働いているよ。」 「平井社長、その知人は私です!」豪放磊落、素晴らしい方であります。
婆ちゃん
今回の一番の目的であった祖母には時間の許す限り会いにいった。今回の帰国を思い立ったのは祖母の骨折であった。92歳になっての足の骨折は寝たきりの生活を心配したが、祖母は思いのほか元気で杖はついていたが元気に歩いていた。祖母は語る。
「骨が脆うなってちょっとひっくり返っただけで折れてまう。そやけど90越えて二回目の骨折やからリハビリの仕方分かってるから今度はすぐ歩けるようになった。」
「明治生まれの婆ちゃんは強い。」母の口癖である。ベルギーに戻る朝、祖母は玄関で私の姿が見えなくなるまでずっと手を振って見送ってくれた。私は子供の頃は優しい祖母を強いと感じた事は無かったが晩年は祖母の強さに驚嘆した。後の話になるが帰国して2年で恵比寿にトシ・ヨロイヅカをオープンした。東京に来れないのは仕方がないにしても家族は祖母にオープンの報告をしなかった。私が「何で言うたらあかんねや!」と詰問すると母の返答は「今、言うたら婆ちゃんは安心して死んでしまう。俊彦が落ち着いた時に話す。」そんな馬鹿な事は無い。祖母は「俊彦が帰国して店を出したらもう何も思い残す事は無い。誰にも迷惑掛けん様にコトッと死ぬ。」というのがここ数年の口癖だったと言う。オープンして一か月半後、店も落着き祖母はオープンの話を聞いた。「そうか俊彦無事に東京で店、開いたか。」そう言った翌日、祖母はいつもの様にお風呂に入り食事を摂り、急にコトッと倒れた。駆け寄った時には既に事切れていた。その報を聞いた時、享年96歳祖母の偉大さに私はふるえた。
「骨が脆うなってちょっとひっくり返っただけで折れてまう。そやけど90越えて二回目の骨折やからリハビリの仕方分かってるから今度はすぐ歩けるようになった。」
「明治生まれの婆ちゃんは強い。」母の口癖である。ベルギーに戻る朝、祖母は玄関で私の姿が見えなくなるまでずっと手を振って見送ってくれた。私は子供の頃は優しい祖母を強いと感じた事は無かったが晩年は祖母の強さに驚嘆した。後の話になるが帰国して2年で恵比寿にトシ・ヨロイヅカをオープンした。東京に来れないのは仕方がないにしても家族は祖母にオープンの報告をしなかった。私が「何で言うたらあかんねや!」と詰問すると母の返答は「今、言うたら婆ちゃんは安心して死んでしまう。俊彦が落ち着いた時に話す。」そんな馬鹿な事は無い。祖母は「俊彦が帰国して店を出したらもう何も思い残す事は無い。誰にも迷惑掛けん様にコトッと死ぬ。」というのがここ数年の口癖だったと言う。オープンして一か月半後、店も落着き祖母はオープンの話を聞いた。「そうか俊彦無事に東京で店、開いたか。」そう言った翌日、祖母はいつもの様にお風呂に入り食事を摂り、急にコトッと倒れた。駆け寄った時には既に事切れていた。その報を聞いた時、享年96歳祖母の偉大さに私はふるえた。