アルパジョンへ挑戦
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アルパジョンへ挑戦
「コンクールに負けて悔しがらない奴は伸びないが恥ずかしがる事は何も無い」私の持論である。すぐさま次のターゲットを翌年のシャルル・プルースト杯に決めた。同コンクールの味覚部門で優勝経験のある青木貞治氏に度々、相談しに行った。青木氏はまだ店舗こそ無かったが立派なラボ(厨房)を持ち、百貨店などに卸しておられた。当時、青木氏は既に私達の中ではスーパースターであったが私が訪ねて行くといつも貴重な時間を割いて親身になって相談にのって下さった。
Les Bijoux du chocolat-ショコラの宝石

Les Bijoux du chocolat-ショコラの宝石

或る日、青木氏から食事のお誘いを受け、16区の「Jamin」でご馳走になった。その時、初めて紹介されたのが、渡仏されたばかりの金子美明氏であった。その柔和な人柄と菓子に対する情熱は半端ではなく、すぐに意気投合した。私は渡欧が遅くその上ドイツ語圏での修行が長かった為、年齢では同世代の寺井則彦氏、桜井修一氏、高木康政氏、堀江新氏、山本光二氏などは既に帰国してカリスマシェフとして大活躍されておられた。雲上人であった彼らは現在では親しくはして下さるがいまだにお会いすると萎縮する。味覚部門優勝と書いたが、これまで読んで下さった方々の中には疑問を感じていらっしゃる方も多いのではないかと思う。パティシエのコンクールなのに味覚の話が全く出てこないのである。この当時、信じられない話ではあるが味覚審査の無いコンクールが多かった。つまり見かけだけのコンクールである。アルパジョンも以前は味覚部門があったがこの年は無かった。これには私は強い違和感を持っていた。しかし外野からヤジを飛ばしていても仕方がない。「批判するのであればまず経験してみないと」。実はこれがフランスのコンクールに挑戦した一番の理由であった。つまり敗戦の悔しさの為に「ミイラとりがミイラになった」という次第である。当時(私の知る限り)味覚審査の残っている個人選コンクールはシャルル・プルースト杯だけであった。このコンクールも開催中止の噂があった為、毎日仕事が終わってから主催組合に通い情報収集に奔走したが組合自体が消滅し、コンクールは中止となった。(現在は味覚審査が再び最重要視され様々なコンクールに適用されシャルル・プルースト杯も復活しました)途方にくれていた私に朗報がもたらされた。INTERSUC2000(国際製菓見本市)でのショコラ・コンクール開催である。飴細工の練習をずっとしていたが、ショコラも得意としていたのですぐに方向転換して出場を決めた。そしてこれを最後のコンクールにする事も。一つの事に熱中するとその事しか見えなくなる私はもう二度とコンクールには挑戦しないと言う訳ではないがこれで一段落とする事にした。

表彰式

アルパジョンコンクールの大きな反省点は「真の私の作品ではなかった」事であった。シンプルにいって負けたクープ・ド・フランスの悔しさから前回は勝ちにこだわりすぎ作風が変わってしまった。今回は勝ちにこだわらずとにかく自分の作品を作ろうと決意した。テーマは「宝石」。テーマが決まると毎日高級宝石店の並ぶバンドーム広場に行きショウケースを眺めイメージを膨らました。頭の中が寝ても覚めてもショコラの事で一杯になり昼休みにも大急ぎで食事を終わらせショコラに打ち込んだ。当時、ショコラに色を付けたり後から吹き付けたりするのが主流であったが、ショコラの持つ自然の色と艶を最重要視して勝負する事に決めた。デザインは女体をモチーフに私らしく出来るだけシンプルに全体の流れとバランスで魅せる。全精力を傾けた作品は当日の明け方になり遂に完成した。その作品を郊外の会場に運ぶトラックの中、ひたすら見守りそして祈った。毎回いくつかの数ヶ月もかけた渾身の作品が運搬の途中で壊れてしまう。市街の石畳に揺れる繊細な作品を祈りながらただ見守る気持ちは経験したものでないと判らない。
会場に着き、静かに作品を台に載せ終わった時、自分の中でのパリの灯は消えた。

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