TOSHIとしてスイスに生まれ
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ベルギーへ
パリからベルギーの首都ブルュセルまでTGVでわずか一時間半の距離である。その道中のほとんどが穏やかな丘陵地帯で牛や馬たちがのんびりと草を食むのを見ながらの移動となる。春には一面の菜の花畑、初夏にはラベンダー畑、夏には燃えるような黄色のひまわり畑が車窓越しに楽しめる。
もっともこれらの事は後日、気付いた事であって、この日の私には景色よりもパリを離れる万感の思いと、ブルュセルでの新しく待ち受ける日々への少しの不安と大きな期待とで一杯であった。華やかなパリで、そして憧れのパティスリーでの夢のような日々、悪戦苦闘しながらも「優勝」という結果を出す事の出来たコンクール。そして何よりもコンクールや日々の仕事の中で培う事の出来た友情。様々な出来事が頭の中を駆け巡っていた。
stohrerのショーケースに飾られた優勝作品
ベルギーへ来る事になったきっかけは親友の鈴木真一氏が当時、ブルュセルにある三ツ星レストラン「Bruneau」で働いていた事であった。パン、ショコラ、惣菜、パティスリー、コンクールでの細工など、パティシエとして学ぶべき事は着実に学んできた。ここにきてまだ本格的に学んでいない「Desssert(デザート)」の事が気になっていた。もちろん日本でのホテル勤務時代にDessertを担当していた事があり、一応の経験はあった。パティシエの仕事、特に若い頃の修行時代というのは長い螺旋階段の様なもの。毎日全ての事をこなしていくのは不可能である。ある期間、焼き菓子をやっていると仕上げの実力が不安になってくる。仕上げに移って暫くすると今度はショコラの事が気になって、そして次はパン、細工もの、そして一通りやると今度は又、しばらくやっていない焼き菓子の事が気になってくる。つまり常に苦手な仕事のないようにパティシエという広い仕事範囲の中でぐるぐる回っていく。しかしグルッと一周してきた時には以前よりも必ず高水準の位置にあり、それを繰り返しながら螺旋階段のように高みに上っていかなければならないのである。そういった意味でもヨーロッパに来てから一度もトライしていないレストランデザートに挑戦してみたかった。どうせやるのであればレストランの頂点、三ツ星を狙うべきである。
賞状、トロフィーと共に
鈴木氏に相談すると彼は直ぐにシェフに取り次いでくれた。彼は以前より私のコンクールの写真を何気なくシェフに見せていてくれた事から「Bruneau」のオーナーシェフ、ジャン・ピエール・ブリュノウ氏は私に興味を持っていてくれた為、私の三ツ星レストラン入りは鈴木氏の尽力もあり意外にもあっさりと決まった。もちろんStage(スタージュ)と呼ばれる研修生としてである。実は三ツ星レストランと言えどStageとして潜り込む事はそう難しい事ではない。一部の三ツ星レストランを除いて厨房に二、三人の日本人コックがStageとして働いているのが普通だ。地方の店では給料はほとんど貰えない事はあるが部屋と三度の飯は約束される。パリでは厳しく、給料も出ず部屋も無い店も多い。さすがにレストランだけあって食事も出ないと言うのは聞いた事がない。私もワンクール(冬のバカンスから夏のバカンスまで)のStageとして最初は軽い気持ちでベルギー入りを決めた。もっとも軽い気持ちと言うよりも三ツ星のシェフパティシエを狙うなどとだいそれた志は微塵も無かった。
パリの私の住んでいた部屋でよく日本人パテシィエを集めてパーティをしたものであったが私の送別会はパリ郊外にある金子美明氏の家で開いてくれた。皆が取っておきのワインを持参して集まってくれた。当時のパーティでは良いワインは最初に空けなければ絶対にいけない。酔ってくると朝になって「このワイン昨晩飲んだっけ?」なんて事になる。この日も何本あるのか解からないほどの空き瓶が部屋に散乱し、パリでの最後の夜を締めくくった。
パリの私の住んでいた部屋でよく日本人パテシィエを集めてパーティをしたものであったが私の送別会はパリ郊外にある金子美明氏の家で開いてくれた。皆が取っておきのワインを持参して集まってくれた。当時のパーティでは良いワインは最初に空けなければ絶対にいけない。酔ってくると朝になって「このワイン昨晩飲んだっけ?」なんて事になる。この日も何本あるのか解からないほどの空き瓶が部屋に散乱し、パリでの最後の夜を締めくくった。