TOSHIとしてスイスに生まれ
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衝突
全てが順風満帆に進む。そんな事はありえない。私の20年間のパテシェエ人生でこのころ唯一暴れ回っていた時期であった。最後の肉料理を出し終わると親父は客席へと挨拶へ向かう。もちろんこれもChefとして重要な仕事である。親父が客席へ出た途端、ピンと張り詰めていた空気は緩み厨房内は「今日も一日無事に終わった」という安堵感に包まれる。ところがDessertはこれからなのである。
キャラメルのミルフィーユ
ある日、盛りつけが終わったDessertを一刻も早くお客様へ届けたく大声で「S'il vous plait(お願いします)」と叫んだ。隅でソムリエと雑談していたサービスは「すぐ行くよ」とばかり微笑みを返して又、雑談に戻った。一秒後、私は「Vite!(急げ)」と怒鳴りながら彼の胸ぐらを掴み、思いっきり壁に叩きつけていた。周囲では何が起こったのか分からず皆、呆気にとらわれている。体格の良い彼は私の手を振り払い「Fou(狂人!)」と怒鳴りながらも直ぐDessertを持ってフロアへと消えた。急にブチ切れた訳ではない、彼とは飲み仲間でいつもその件について話し合っていた。彼だけではないスタッフ全員にいつもお願いしていた事であった。その場では「Toshiもちろん分かってるよ。Dessertも料理と同じに大切さ」と口を揃えて言う。しかしいくら口では言っても親父が居なくなった時の緊張の後の弛緩はどうしようも無かった。そもそも親父が厨房にいる時、サービスが雑談をしている事自体ありえなかったし、料理が仕上がれば何をさて置き彼らは飛んでくる。私は暴力や体罰賛成主義では決して無いがこの時期暴れるしかなかった。知らず知らずのうちにDessert前にはいつも私の眉間には深い皺が入り、何もないうちから一触即発の空気が漂った。この空気をいつも和ませてくれたのがメートルのサルバトーレである。彼だけは親父の存在に関係なく、いつも明るくそして時には厳しくレストランの威厳を保っていた。彼はいつも私の味方であった。尤もイタリア人である彼はスタッフ全員から慕われており私のいない所では彼らの味方であったろう。もう一人、新しく入ったChefのエルベも私の事を良く理解し応援してくれた。空手もやる彼はシャイニングという映画のジャック・ニコルソンにとても似ていて凄みがあった。前任のChefは厨房を去る前の三日間、最後の肉料理を出し終わった後、ピアノ(コンロ)に両腕をつき男泣きしていた。私達は傍にいながら慰めの言葉が掛けられない程、親父のプレッシャーは厳しかった。私は衝突した後は必ず相手が小僧であろうと暴力を振るった事に対しては謝り、何故激怒したかについては詳しく説明して理解してもらえる様に努力した。揉め事を起こした夜でも溜まり場のBarに行き、「さっきは悪い」と謝ると「俺も悪かった」と直ぐ何事も無かった様に酒を一緒に飲めるのはヨーロッパの良いところであった。無論、陰口や厭味はあったのであろうが私のフランス語力では理解出来なかったし、又そういった事に気を配るほど繊細でも無かった。
プルーンとブルーベリーのデザート
やはりよくスタッフと喧嘩沙汰を起こしていた洗い場のコソボ人と喧嘩になった時、いつもは私が喧嘩していても知らんふりをしている親父が彼を一喝した「出て行け!」と。コソボ難民でベルギーに来ている彼は涙を流して親父に許しを乞うた。私はこの時は酷く反省して彼とは二度と争いは起こさないよう心に誓った。
私にはChef Patissierとしての立場の問題であるが彼には死活問題である。人種差別はもちろん反対であるが間違い無く世界中で存在する。白人優遇の社会は薄まったとは言え根強く残っているし今後も残っていくであろう。ヨーロッパで黄色人種がやっていくにはこれを現実として捉え、そして戦って(協調も含めて)いかなければならない。この時、実はまだ労働ビザは正式には降りていない。その理由の一つは私がトルコ人街に住んでいる事にあった。
私にはChef Patissierとしての立場の問題であるが彼には死活問題である。人種差別はもちろん反対であるが間違い無く世界中で存在する。白人優遇の社会は薄まったとは言え根強く残っているし今後も残っていくであろう。ヨーロッパで黄色人種がやっていくにはこれを現実として捉え、そして戦って(協調も含めて)いかなければならない。この時、実はまだ労働ビザは正式には降りていない。その理由の一つは私がトルコ人街に住んでいる事にあった。