労働ビザ申請
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労働ビザ申請
何故トルコ人街に住んでいたのか?それは家賃が安いからであった。パリ時代に比べて給料はぐんと良くなったがそれでも食に携わる事以外の贅沢は禁物である。どこの国にもあるアラブ人街や黒人街、中国人街は家賃も含めて物価が安い。日本人街もある。しかし日本人街の日本人は移民ではなく転勤族である。企業のサラリーマンやその家族達であるから治安も良いが物価も高い。

ハロウィンのデザート

現地のエリート日本企業マンと知りあう事もあった。一度、家に食事にご招待して頂いた時の事、居間に大きなピアノがある事に驚いた。それも日本から持って来たというのだ。それほど必要な物なのかと尋ねるとそうではなく転勤が決まると企業から派遣された業者がやって来て、家の中の荷物全てを梱包して送りベルギーの新居にセッティングされるというのだ('01年当時の話で今は知りません)。なんとも「贅沢な世界だ!」と驚いた。彼らは一様にヨーロッパで修行しているほとんどの料理人が労働ビザを持たずに働いている事に「信じられない!」と驚いた。有名シェフがよく「フランスで10年修行した!」なんて堂々とテレビなどで発言しているが「それは不法労働だったのか?」と。もちろん日系ホテルなどで働いているコックは全員ビザを持っている。しかし町のレストランで働いている多くの料理人やパティシエはビザを持っていない。ビザとは言わず「紙持ってる?」で通じる。もちろん全員が喉から手が出るほど紙が欲しい。しかし紙は何度も書いてきたが滅多に許可されない。
私が住んでいた区は前にも書いたがアラブ人街(トルコ人が多かったが)で区民の7割以上が外国人(ベルギーに対して)であった。それ故わからない話では無いが外国人の新規の流入を拒絶していた。厄介なのはそれが法律ではなく区の暗黙の方針であった。私は周りの日本人にアドバイスされるまでその事は知らなかった。同じ区に住んでいたベルギー男性と結婚した日本人女性は、本来なら何の問題も無い筈の区役所での手続きの対応の悪さに腹立ち、別の区に一旦住所を移しビザを所得し又、戻したと言う(外国人に対してもとても親切な区はもちろんあります)。

木型職人と共に

労働大臣とBruneau氏からお墨付きを頂いた私は他の区なら直ぐ許可されるはずが区役所に行く度に引き延ばし工作にあった。15枚ほどあった用紙に細かく必要事項を記入して、その他に健康診断や日本での無犯罪証明書など取り寄せたりした。これらは正規な手続きである。ところが本来なら一度に済むはずが「又、来週きて下さい!」次の週に行くと。「この書類が足りない」「ここにサインが無い」等々。申請から一年経ってもまだ終わらない。頭にくるがこちらにも後ろめたい事はある。スイス・オーストリアの3年間は紙を持っていたがベルギーに入る直前までの、パリでの2年間は紙が無い。向こうもその事はもちろん気づいている。ちくちくと嫌味を言ってくるがそれを根拠に強制退去させる程、事を荒立てる気は無い。親父(Bruneau氏)からは「何か言ってきたら、直接話すから電話してこい!」と携帯番号を教えられていたが、子供じゃあるまいし「区の担当が嫌がらせをするから助けて。」なんて言えない。しかし一度ブチ切れた私は怒鳴った。
「いい加減にしてくれ。いつまで引き延ばす気だ。俺は何も悪い事はしていない。この手続きはおかしい!」
彼も負けじと怒鳴り返してきた。「お前、そもそもなんで此処にいられるんだ!まだお前は労働許可証を持ってないんだぞ!」それを言われるとぐうの音も出なかった。散々嫌がらせはされるが暗に私の存在は認めてはくれていたからであった。

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