お世話になった方にお礼を
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お世話になった方にお礼を
感謝の旅、最初の地であるパリでは金子美明氏が軸となって送別会を開いてくれた。私がパリを離れて約2年半であるが15人程集まってくれたパリの日本人Patissierはほとんどのメンバーが入れ替わっていた。会は盛り上がり酔い痴れるほどに話題は三か月後のアルパジョンコンクール(VOL44参照)になった。途端に皆の目がギラギラと輝き出した。

エルマンティンガー氏と共に

自分も三年前はこうやって、もがきながらも何かを掴み取る為、遮二無二にコンクールに突入していった。今となってみればその何かはコンクールのトロフィーではなく別の物であったのだがそんな野暮な事は言わない。「若いうちは買ってでも苦労をしろ!」などと言う親父になりたくは無い。実際に若く苦労している時代は「苦労を買いたい奴がいれば幾らでも俺が売ってやる!」と思うであろう。
Stohrerの元シェフであり恩人であるリオネル氏は郊外で素晴らしいショコラティエをされていた。「もうのんびりと仕事をしたい」なんて呟きながらも店は繁盛していた(現在は優雅にブルターニュでオーベルジュを経営されている)。新婚旅行のギリシャにまでついて行った友人のミハエルは可愛い娘がもう一人増えて二児のパパになり、語学でお世話になったエリコさんは当時、始めたばかりで悪戦苦闘の語学学校経営であったが今では教室も随分大きくなりスタッフも増え校長として貫禄がでていた。青木貞治氏は念願の路面店を出されてとても順調で、挨拶に行くと「Toshiさんは勢いがあるから日本に帰ったら絶対成功するよ!」と言ってくれた。なんの根拠のないお世辞かも知れないが力強い言葉に随分励まされ自分でも「何とかなるかも!」という気にさせてくれた。 パリを発ち4年振りのウィーンでも皆が歓迎してくれた。久々のホイリゲでのワインの味は格別だった。マンフレッドは近くにもう一店舗出店していて私と同じ年であったが菓子職人の他に青年実業家としての空気を早くも醸し出していた。シェフを務めていたヘイトナー氏は小さいながらもほっこりとする菓子屋を開いていた。言葉がまだ不自由な私に気を遣ってくれピンポン大会を催してくれたのが懐かしかった(VOL21参照)

2004年Toshi Yoroizuka OPEN 家族と共に

「欧州でお世話になった方に最後に一言お礼を!」と始めた旅も、とうとうTOSHIとしての出発点(VOL4参照)のシャッハウゼンまで戻ってきた。初めてこの地に着いた時の事が次から次へと蘇る。店は何件か入れ変わっていたが町自体は全く変わっていなかった。そしてエルマティンガー夫妻、ステファン等、大好きな仲間の温かい心も全く変わっていなかった。ステファンの家に暫く住まわせてもらい以前と同じ様にライン川で泳ぎエルマティンガー夫妻と食事をした。16世紀の街並みがそのまま残り古きよき物を大切にする彼らは古きよき心も大切にしている。 シャッハウゼンを出る日、町一番の時計屋に入った。何の迷いもなく一つの時計を買った(VOL19参照)。奇をてらう事なく当たり前の事を当たり前に愚直なほどにやり続ける。時が経つ毎にその経験が美しさを醸し出してゆきその美しさと誠実さが少しずつ周りの人々に信頼されてゆく。それが自然とシャッハウゼンから世界のIWCへと周りから持ち上げられていった。改めてこんな時計の様な菓子職人になりたいと思った。 いよいよ日本へと向かう飛行機の中。私の友人が日本に帰る前日「パリへの万感の思いで胸が張り裂けそうだ」と嘆いていたのを思い出した。私はお世話になった全ての方々に感謝の気持ちで一杯ではあった。しかし欧州に愛執の念を持つ余裕は無かった。関西空港に降り立ち長い通路を荷物受取場所へ向かう途中ずっとトム・クルーズの「Mission Impossible」のテーマソングが頭の中で鳴り響いていた。欧州で見知らぬ街にたどり着いた時、笑顔で迎えてくれた人々が今は私の仲間となり彼の地から背中を押してくれている気がした。スイスで生まれた「Toshi」は初めての日本に夢と希望と少しの不安で胸が張り裂けそうであった。

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